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松本人志降板「ワイドナショーで宮崎駿に謝罪」

フジテレビ「ワイドナショー」(日曜前10・00)は4日、先週5月28日の放送でスタジオジブリの宮崎駿監督(76)の「架空」の引退宣言集を紹介したことを謝罪した。

 

ワイドナショーで謝罪

5月29日に番組公式サイトにお詫び文を掲載したが、あらためて番組内でも謝罪。また、メーンコメンテーターの「ダウンタウン」松本人志(53)が、同じことが起きた場合は同番組を降板する意向を示した。

 番組冒頭で、同局の秋元優里アナウンサー(33)があらためて謝罪文を読み上げ、出演者が頭を下げた。そんな中、松本が「スタッフの責任として丸投げするのは嫌なのですよ」と切り出し、言葉を続けた。

 「正直言うと、“知らんがな”ですよ」と心情を明かしつつ、それでも「与えられた情報で、それを信じてしゃべるしかない。文言を全部確認して、裏取りもしないといけないのは我々の仕事ではない」とコメント。そして「今後、このようなことがあったらワイドナショーを降りようと思ってます。マジです」と同じようなことが繰り返された場合は番組を降板することを宣言した。

 その発言の理由については「責任を取るという意味じゃないです。そんなかっこいいもんじゃない。ニュースを扱うということは、それくらい緊張感をもたないといけない」とした。

宮崎駿監督の引退宣言集

 問題となったのは5月28日の放送。「宮崎駿『引退撤回』新作長編アニメ始動!」というニュースを取り上げた中で、宮崎監督が過去7回、引退宣言をしたと紹介し、その際の発言を「引退宣言集」としてフリップにまとめた。

 しかし翌29日になり、これが「実際には宮崎駿氏の発言ではなかったことが分かりました。真偽を確認しないまま放送に至り、宮崎駿氏並びに関係者の皆様、視聴者の皆様にご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます」と番組公式サイトで謝罪した。

1986年「天空の城ラピュタ」時の「人生で最高に引退したい気分」など、フリップの文言が、2013年9月にツイッターに投稿された創作文章と一致。このツイッターユーザーが28日に「ぼくのネタツイート(当然ながら宮崎駿が言ったセリフではない)がテレビで使われてるんですが」とし、フジに訂正報道を求めたことを明かしたため、SNS上で「フジが創作ツイートを誤用した」などと騒動になった。

宮崎駿監督の生い立ちから成功まで

一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。
幼少時は身体が弱かったので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し、アニメーションにも関心を持つようになる。学生時代にデッサンを独学で学び、ポール・セザンヌのような印象派に影響されている。
アニメ業界での活躍[編集]
学習院大学に進学したが、当時は大学に漫画サークルが無かったため、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。『ガリバーの宇宙旅行』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965-1968年)を作り上げた。、
1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社、新企画「長靴下のピッピ」を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』の演出の仕事を引き受ける。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくはルパンの項を参照)。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。
高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。