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演歌界の貴公子・山内惠介(やまうちけいすけ)に密着!ダウンタウンDX

2017年6月22日(木)夜22:00~23:00 日テレ系「☆ダウンタウンDX☆」の放送で、演歌界の貴公子・山内惠介(やまうちけいすけ)さんに密着。

演歌界の貴公子・山内惠介(やまうちけいすけ)とは?

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生年月日:1983年5月31日(31歳)
出身地:福岡県
兄弟:男3兄弟の末っ子
身長:178㎝
血液型:O型
特技:水泳(小学校6年間)
学歴:福岡県立筑前高等学校卒業

思春期は

山内惠介さんは学生時代、周りの友達の影響で、安室奈美恵さんや浜崎あゆみさんなどの曲を聴いていたそうです。

初めて買ったCDは、中山美穂&WANDSの「世界中の誰よりきっと・・・」だそうです。

ただ演歌好きは昔からのようで中学生時代に放送部だった山内恵介さんが校内放送で、なんと美空ひばりさんの「川の流れのように」を流したと言う話も!

山内恵介さんとしては、思春期まっただ中の悩み多きの友人たちが少しでも癒されるようにとの選曲だったようですが評判はイマイチだったそうです(笑)

中学を卒業すると福岡県立筑前高等学校に入学します。偏差値61というなかなか進学校です。

デビューのきっかけ

1年生の時におじさんが勝手に申し込んで初めて出場した地元福岡県のカラオケ大会で優勝し、作曲家・水森英夫さんにスカウトされ内弟子になったことがデビューのきっかけとなりました。

幼少期は

男3兄弟の末っ子として生まれた山内さんは、なんと出生体重が4600gというジャンボベビーでした。

末っ子らしく甘えん坊でお母さんが大好き、いつもべったりくっついていたと言います。

母親は演歌が大好きで、特に美空ひばりさんの大ファンだったので、山内さんも一緒にひばりさんの歌を聞いて育ちました。

母親のお腹にいるときからというので、まさに演歌の胎教を受けて育ったんですね。

5歳の頃には、卓袱台をステージ代わりにして美空ひばりさんの歌を親戚を前で披露するほどに。フルコーラス覚えて、さらに歌い方もモノマネすると、みんなが拍手喝采喜んでくれたそうです。

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「その時の光景を今でもはっきり覚えている」という山内さん、それが歌手を目指す第一歩だったのかもしれません。


山内惠介 - 愛が信じられないなら

実は『第66回 NHK紅白歌合戦』に山内さんは初出場をしています!

山内恵介さんはインタビューに「15年目という節目の年に念願の紅白に出さえてもらえるということは、僕にとって最高の喜びです。紅白歌合戦はスポットライトを浴びながら、噛みしめて、感情を込めて歌いたいと思います。」

と答えています。辛い時代を乗り越え、コツコツ一歩一歩すすんできた山内惠介さんの夢がまたひとつ叶いました。

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山内惠介さん今に至る経緯

運命のカラオケ大会の日から、毎月東京でのレッスンが始まりました。月1での上京、それが約1年間続きました。そして2001年4月に、水森先生作曲の『霧情』でデビューしました。

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当時はまだ高校3年生だった山内さん。キャッチコピーは「ぼくはエンカな高校生」

高校生の演歌歌手。その話題性から当時は多くの取材を受け、たくさんの人が集まってきました。

しかしそれも長くは続かず、次第に注目されなくなってしまうという辛い現実を突きつけられてしまいます。

すでに親元を離れて、東京で生活していた山内恵介さんでしたが、ママっ子の彼が母に会うと「心に甘えが見える」との理由から、母親との連絡を絶つように指示をされてしまいます。ホームシックがあまりにも辛くて、母の声を聞けば帰りたくなってしまう・・・「母に会いたい」、「話したい」、そんな日も数えきれないほどあったと思いますが、それを乗り越えた山内さんの覚悟が伝わります。

しかし辛く寂しい思いをしていたのは、山内惠介さん、本人だけではありませんでした。11/28放送の『徹子の部屋』では母からの手紙も披露されました

マネージャーさんより「今より便利の良い場所に引越しました」と手紙が届きましたが、練馬の春日という場所だけで詳しい住所は分かりませんでした。「近くに大きな公園があり本人も気に入ってますよ」とのことです。

どんなところなのかと確認だけでもと思い、住所や部屋の番号もわからないまま、電車に乗って行きました。

分かるのは「部屋の前に大きな公園がある」ということだけ。それだけを頼りに母は慣れない東京を探し回りました。

心細くなり派出所で聞くと「大きい公園はいくつもあるからね」と不憫そうに言われたそうです。

しかし運命に導かれるように奇跡的に、惠介さんのマンションにたどり着いたのです。

ここに住んでいるのかと、玄関、ベランダと何度も何度も見て回り、日当りはどうかと考えながら今来た道を戻りました。駅で若い男性と惠介が重なり、思わず「惠ちゃん!!」と声をかけてしまい、我に返ったこともありました。

最愛の息子に会えない日々。遠く離れた地でひとり頑張っている息子を思うと、胸が張り裂けそうな時間を過ごしたことでしょう。

「今では全ていい想い出」と手紙には綴られていましたが、当時のお母さんの辛さや山内さんへの想いが伝わる手紙でした。

山内恵介さんも涙を抑えることはできませんでした。